息子 生まれて来てくれてありがとう。 |
病気が分かったのは生後11か月の頃 同居の母が「この子 視線が定まらない」・・・と
まさか 授かった我が子に何かある訳はない!と疑いを持ちながらも
神戸中央市民病院へ連れて行き 脳波など諸々の検査をしてもらった。
検査結果を聞かされたのが 神経小児科に回された最後の患者であった。
息子を抱っこしながら 医師の説明がはるか遠くに聞こえ 繰り返され説明が終わった時
「これは 何かの間違いだ」と それだけが頭の中をぐるぐる回り
全く 病名の説明や今後の病気への対応など理解できず部屋を出た。
幼子と共にヘナヘナと崩れ落ちるよう 全身の力が抜けたことを今でも覚えている。
その場から動く事が出来ず 泣く力も尽き ぼんやり座っていたら
ふと気が付くと 優しいご婦人が寄って来て
「奥さん 何かお辛いことがあったのね。 大丈夫よ。
生きていたら 色々あるけれど きっと坊や 良くなるわ・・・」と
その慈愛に満ちたお声や優しく接してくださる心のこもった言葉に
再び溢れ出るものが止まらなくなり そのご婦人のお顔も見ることが出来ず
暫く 診察室の前でいたような~ それから どうやって 家に着いたのか・・・
病院のあるポートアイランドから 東灘に向かって帰る途中の橋の上から
左右に見える青い海の神戸港 大きく「どんとこい!」と構えているような六甲山。
私を包み込むように これからのことは全て受け止めてやろう~と言わんばかりに
山の存在に 一瞬でも気持ちが癒されたことを覚えている。
あれから 30年・・
息子は発作があるものの 偶に怪我をしながらでも 何とか元気で過ごし
周りの人々に愛され 施設でも大事にされている。
若かりし頃は わたし自身 人生への苦悩に耐える力も弱々しく
突然の出来事に 絶望だけがのしかかり
発病当初は 息子への対応処理が困難だったように思う。
子供の成長と共に 良き指導者にめぐり合い手助けしてくれる方にも多く出会ったことや
同じ障害を持つ お母さん方とのコミニュケーションにも随分和み励まされた。
主人や同居の両親・7歳年上の娘にも 何が何でもこの子のことを真っ先に・・と話し合い
家族の協力で 辛い時期を乗り越える事が出来た。
(娘が中学生になって気持ちを聞いたことがあったが 息子優先でかなり耐えていた様だ。
親としては目離ししていなかったが 甘える時期に甘えさせなかった。
多感な時期の娘の心の奥底が見えなかった。 可哀想な目をさせたようだが
それは娘なりに乗り越え たくましく成長した。また 娘のことは機会あらばいつか・・・)
そんな中で 今振り返ってみると 息子にも私にも家族にも
この子在りて 教えられたことが多くあったように思う。
見えないものが大事だということや 幸せはここにあることも気づかされた。
自然の美しさや雄大さに心奪われるとは まさに このことであり
淡路島に転居し六甲山は遠くなったが そろそろ色づいて来た頃だろうか?
毎年 息子の誕生日には優しく声をかけて下さったご婦人のことや
辛い時に飛び込んできた神戸の美しい山や海を思い出しては 忘れることは出来ない。
息子は言葉に出さねど 「お母さんありがとう」・・・と思ってもらえるよう
ずっと 優しくありたいと思う。
明日 迎えに行くから 待っててね。